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安政の地震火事と大正震火災

大熊喜邦(大蔵省技師、工学博士、1877年生れ)の講演より


防火制度

「幕府の政策としましては、再三の火災にこりて、防火家屋を奨励したのであります。それは飛火がして延焼を多からしめたことに対しては瓦葺を奨励したのでありまして、防火構造としては塗り家土蔵造を奨励したのであります。それはその時分としては、確かに有効なる所の構造法であったのでありましょう。そしてこの塗屋造、土蔵造が沢山にでき、明和の大火に試験をされているのであります。この明和の火災において、大分に有効な結果が現れた、というようなぐあいで、瓦葺、塗屋造、土蔵造というものが、ますます奨励されました。その奨励の手段として、火災があった時分にその焼跡に家を造るには、塗屋造にしろ、土蔵造にしろ、瓦葺にしろ、というような命令をだしておったのでありまして、その命令はただ文書ばかりの命令ではなかったのであります。すなわち、すこぶる積極的な方針にでて、これに対する恩借金があったので土蔵造、塗屋造を奨励するためには、幕府は金を支出しておったのであります。その方法は、大名と言わず、旗本といわず、町家といわず、その身分に応じて、幕府が無利息の十年月賦で、金を出して奨励をし、なお町家に対しては、五ヵ年間租税を免じて、防火家屋を奨励しておったのであります。かくして幕府は江戸の町々に、防火線を敷くということに努力しておったのであります。これらの土蔵造や塗屋造は、安政の地震の時に火災には安全であったかも知れないが、地震のために相当の被害を受けておった。しかしながら、その方針によって出来たところの家は、壁が大破しても屋根は土居塗の施しであるため、瓦は落ちても下地は割合に痛まぬのであります。これは今回もその実例がたくさんあります。それがために、壁は落ちても飛火がして、屋根からすぐ火がつくということが、割合に少なかったと思われますが、今回のはどうかというと、家が粗造で、瓦は落ちて、まず裸であります、そこに火が落ちて、どんどん火がつくというような結果から、火災が大いに延焼したものと、想像することができるので、その上、簡単に消すことの出来た飛火さえ、防がなかった傾があります。」
「元来、江戸の都市計画では、内外の濠は自然の防火線路であった。日本橋、下谷、本所、深川に、縦横に通っておった所の堀割、その掘割もまた防火線の一つであった。その上、この掘割の両岸は、土蔵造でなければ建てさせない、つまり河岸の倉、いわゆる岸倉にしたのでありまして、要するにその時分の防火的建築によって、両側を燃えぬものにした。したがって、それらの堀割ならびにその両側というものは、防火線路になっているのであります。なお、その他に再三の火災に苦い経験を持っている幕府は、各所に火除地というものを設けたのであります。そうしてその火除地には建築地を許さず、平時は民衆の娯楽用地としておったのであります。」

消防器具、用水

「江戸時代においては、非常に多くの火災に、苦い経験をもっておりますために、宝暦年間に木製の龍吐水、すなわち、今はあまり姿をみませんが、木製のポンプ、あれを幕府自身で造って、各町内に貸し下げたのであります。」「今日からいえば、極めて幼稚なものでありますが、龍吐水の効果を認めてから、その後は各町でだんだん多くこれを備えるようになり、少ないところで一町に二個、多いところでは一町に八個、大名屋敷ではたいてい龍吐水を備える、大通りの商店は主として自分の家作でありましたから、自分の龍吐水を備えておって。一軒に一台もあり、二台もある」「一台乃至二台の龍吐水は、一軒の火を防ぐには当時十分であったのであります。」
「江戸時代においては、水道は水源地が三つも四つもありました。水道は三つも四つもの別の水源地からこの市内に入っておったのであります。そうして、その用水としては、この水を井戸に引いているのであった。また諸所に池もあった。それから濠の水、川の水というものも、もちろん消火用水となったのであります。そうしてそのほかに、江戸時代においては、火には水というモットーのもとに、井戸を作ることを奨励した。その例としては、こういうことがある。町中に用心井戸を作れと、その井戸というものは、どうであるかというと、一町の両側に井戸が八つ、一町より長いものは十づつ掘る、片側の町は四つづつ掘る、という命令を出した。用水の来ない所は方々に水溜桶を置かした。その水溜の数は一町について八つ、しかし長く置くと水が腐るから、一ヶ月一度は水を取り替えて置け、というような命令を出して、用水を備えさせたことがある。この他にさらに屋敷内には井戸というものは沢山にあったのであります。」「この井戸が安政の火災において、ずいぶん役立っていることであろうということは、想像されるのであります。」「水溜桶が江戸市中の町家だけでどのくらいあったかと思いますと、十五万九千三百九十六個の水溜桶が備えられておったのであります。しからばその時分に表通りの店は何軒あったかというと、約十三万でありますから、一軒について一つ乃至二つの水溜桶があったことになる。これをその時分の人口にあわして見ますと、町家六人について一つづつ水溜桶を備えたというような状態になるのであります。」「今日では皆さんご承知の通りの消防制度をもっておる。そうして消防器具は科学的に十分発達したものであります。そうして、災害の当時、相当に消防は活動をされたはずのものでありまするが、いったん水道に故障が起こってくれば、もう燃えるがままに、まかせるより無かった。要するに、今回はあまりに水道に頼りすぎた。」

消防制度の比較

「江戸時代の消防は、官の力ばかりでなく、全く自衛的に消防に努めておったということがうかがわれるのであります。これに反して今回の火災に際しては、官の消防に頼りすぎておった。東京の市民は自衛的の処置が、極めて少なかったように思われる。」


「震災に関する第四回講演会録」より、大正12年(1923年)12月4日午後4時より日本工業倶楽部において。現代かな遣いに変換しています。



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