西山夘三 すまい考現学-現代日本住宅史(1989年) より
江戸の町家ははじめは草葦きが多かったが、開幕早々の1601年に火事があり、もえにくい板葺きがふえ、瓦葺きもおこなわれるようになった。しかしそれだけではすまなかった。
町家の超高密度の集積による過密巨大都市の成長は、さまざまな問題を生み出したが、その中で目に見える災厄の最大のものが「大火」である。江戸から東京にいたる約300年間に記録に残る火事が873回、延焼2㎞以上の大火が110回にも及んでおり、おびただしい人命と財貨が失われた。江戸は関東平野の中心にあり、東京湾に面した平坦地で、特に冬期は乾燥した「空っ風」が吹きすさぶ。粗末な木造家屋の並ぶ都市は火起こし用の「付け木」をたばねたようなもので、大火事は必然であった。しかし主として町地をおそった大火に対しては、幕府は重大な脅威を感じたというわけではなく、はしご、とび口などを武器に、延焼路を破壊して火をくいとめるという程度の幼稚な技術しかもたない消防制度をつくっただけである。大火には施す策(ずべ)もなく、水面や農地でやっと焼け止まりになる。この時期に西欧諸国、たとえばロンドンでは1666年の大火ののち木造建物を一切禁止して、現在あるような耐久性のある石造・煉瓦造の都市を生み出すキッカケとなったが、日本ではそのような対策をとることは考えつきもしなかった。
むろん幕府は大火のおそろしさを知らなかったわけではない。明暦の大火後、道幅を大きくしたり火除地をつくった。しかし、何といっても江戸城と武家屋敷の防衛が第一であった。そのためか、この大火の折に重い瓦葺きの建物が倒壊して下敷きになる犠牲者を出したことから、かえって瓦葦きを制限・禁止した。その結果、延焼に弱い草葺き、板葦き(木っぱ葦き)の家がふえて危険になったので、1660年にその上に土を塗るといったまったくドロナワ的対策を打ち出している。また貝殻をならべる「蠣殻(かきがら)葺き」といったものを奨励しているが、あまり効果があったとは思えない。1645年に江戸ではじめて「瓦焼き」 がはじまり、1694年には従来の本瓦よりもずっと軽く葺くことのできる「桟瓦(さんがわら)」が発明された。これをうけてやっと1720年に、それまで町人には贅沢として禁止されていた土で塗りこめる土蔵造りや瓦葺きが「勝手次第」となった。1732年には、前年の大火で類焼した家を瓦葦きにするための「恩借」、つまり資金援助がおこなわれた。さらに下って1842年には表通りの町家を土蔵造りにせよと命令している。その結果、裕福な町人の家では、軒下、壁などに土を塗った塗壁造りや重厚な「箱棟」をのせた土蔵造りが表通りの独特の景観として生まれる。
大能書邦博士の「住宅に対する幕府の法令」の研究によると、家作に関する禁令の半分は火災に伴うものであったという。家屋構造についての規制が多いが、大火後の復興建築のために武家に対しては石高に応じて十年返済の恩借、町人に対しても1727年から防火構造に改造する場合の公役金免除といったことをおこなっている。また大火後の建築材料や大工・左官などの賃金、既存借家の家賃の値上げなどをさしとめる禁令も出している。しかしそれがどの程度の効果があったのかはハッキリしない。江戸に大火があるといち早く木曽の山奥に走り、大量の材木を買いしめて財をなしたという商才のある町人もいたのである。
こうした瓦葺き・塗籠(ぬりごめ)の重厚な構造は、大火がほとんどなく防火的家屋を建てる資力を蓄積し得た上方(関西)では早くから採用されており、裏長家でも瓦葦きが一般になっていた。それがまた大火をたやすくひきおこさないということにもなっていた。しかし江戸ではそうはいかなかった。喜田川守貞は、幕末に近いころではあるが、江戸の町家をみて、表通りは立派な塗籠の「土蔵造り」や、これを少しおそまつにした瓦葦き・土璧に下見板張りの「塗家(や)造り」となっているが、裏通り(横町・新道)や裏長屋は木っぱ葦きで火事がおこるとすぐもえる「焼屋(やきや)造り」になつていると指摘している。火災の頻発した江戸の町家の、居住者の階級分化を反映する構造形式の階層分化である。
市民の大部分を占める下層職人や日雇い人足の住む裏店が 延焼に抵抗力のないバラック風の「焼き屋」でしかなく、それが相変らず大火延焼の原因をつくっていた。しかし、火事がおこれば物価も賃金も上がってまた景気がよくなるといった期待もあり、庶民は火事と喧嘩を「江戸の華」といっそ讃美し、「宵越しの金は持たぬ」という気風を生み出した。耐久性・耐火性の欠ける粗末な住居を脱出することのできなかった江戸庶民のこの住居観が明治・大正・昭和にもうけつがれて、関東大震災(1923年)や太平洋戦争のジユウタン爆弾(1945年)の災禍にうけつがれたといえる。