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復興東京の技術的観察並に建築の変遷
北沢五郎(帝都復興院建築局を経て警視庁建築課長、1889年生れ)の講演より
震火災後のバラックの棟数及びその建築費
「復興事業については、初め種々の説があったので、市民はしばらく家を建てるのを待っておりましたが、復興事業計画が出来てからバラックを建てては間に合わないというので、どんどんバラックが建ち始めたわけであります。だんだんバラックが建ってきてバラックの総棟数は、23万棟出来たのであります。焼けた棟数が18万棟と申し上げましたが、出来たのは23万棟であります。この23万棟のバラックは一棟の平均坪数が17坪1合でありますので、23万棟の延坪数は約400万坪になります。400坪の建物を家屋の建築費にして出すと坪百円いったとすれば4億円になるわけでありますが、実際焼跡に建てましたのはバラックで安い家でありますから、平均して一坪60円乃至80円くらいの値打ちのものであります。バラックを建てました時は、地震直後または1年後か一年半後でありますので、材料の不足とか労働賃金が高いというような関係から、その当時、支払った額は、100円くらいではなかろうかと考えるのであります。後で区画整理をやりましたときに評価したのは、平均80円くらい、むしろ80円以下でありましたが、その当時建てた人が支払ったのは坪100円くらい支払っております。」
バラックの移転料
「バラックの出来つつあるあいだに、復興計画は漸次進捗して、いよいよこのバラックを動かして、整然と区画割の出来たところにはめこむという仕事になってきました。23万棟のバラックをもういっぺん動かさなければならなくなったのであります。ところがこれはその当時やかましい問題であって、移転料として一坪27円50銭、政府が出すことになっていたのですが、市民側では、われわれは「七とこ」借りをしてようやくバラックを建てたのに、一坪27円50銭くらいの移転料をくれたって動かすことは出来ない、そういうことには反対であると「不動同盟」というものをつくり盛んに復興局の移転計画に反対しました。」
「動産を移転さすためには、非常に多額の移転料を支払いました。その他、移転工事中の商売休業補償というものまでくわしく調べて支払い、じつにこまかいものまで支払ったので、その当時復興局の出張所へ彼方此方から怒鳴り込まれ、苦し紛れにラジオのアンテナを張る竹ざお一本にまで移転料を支払わされました。そんなことをしましたものですから、23万棟の中、移転料を支払って動かしたのが21万棟ですが、この移転料が平均43円20銭支払ったことになっております。20万棟建物の延坪数はまづ340万坪で、そこへ一坪43円20銭の移転料を支払ったのですから、その金は1億5千万円余りになっております。それでその43円20銭の内で、建物だけを動かす金はいくらかというと31円ばかりであります。これを30円と考えまして340万坪に乗じて見ますと、約1億円で、これを建築工事の方から考えますと、先ほど申し上げましたようなバラックを建てるのに4億円金がいり、4億円かけてやりましたバラックは、また区画整理で動かす建築工事費が1億円いったというわけになりますから、バラックだけに約5億の金がいったというわけであります。」
「だんだん、移転の数が多くなりまして、ついには移転を早くやらないと道がよくつかない、道がよくつかないと商売が出来ない、そこで早くバラックを動かそうという気運が出来てきまして、初め不動同盟なんてありましたが、後には出来るだけ早く動かそうという具合になってまいったのであります。一番盛んでありましたのは昭和3年8月でありまして、それが棟数で1万5千2百52棟動いておりまうす。これを一日に動いた数に割り当ててみますと、一日に500棟動いております。」
本建築の棟数及びその建築費
「一方、バラック以外に、だんだんほんとうの建築が出来てまいりまして、それがどのように増えてきましたかというと、大正12年から昭和5年の末までの統計を申し上げますが、7ヵ年の合計で東京市及び隣接町村内に出来上がりました木造の建物は29万棟できております。29万棟の坪数が590万坪、一棟の平均坪数が20坪5合でこれを坪80円の建築と致しますというと4億7千万円になります。」「それから鉄筋コンクリートまたは鉄骨構造といった永久建築なりまたは耐火建築というような西洋建物はどのくらい出来たかと申しますと、市内と郡部をひっくるめまして棟数4千8百棟、その延坪が74万坪、一棟の平均坪数155坪になっております。坪300円かかったと致しますとその金額は2億2千2百万円になるわけであります。」
昭和6年(1931年)5月13日大日本連合火災保険協会において。建築雑誌、昭和6年9月号掲載。現代かな遣いに変換しています。